楽聖少女

あらすじ

少年は嵐の日の図書室が好きだった。無人の空間にざわめく風雨の音は、どこか開演前のコンサート会場のざわめきを想起させ、動悸が高まってくるから。

ある嵐の日、一人図書室にいた彼は思いがけない存在と出会うことになる。自らの身分を悪魔と明かす美女――メフィストフェレス。彼女は、「若々しい身体を手に入れ、ある人と魂を融合させる」という突飛な契約を遂行するために彼の元にやって来た。契約者の名前は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ

気付くと彼の意識は18世紀のドイツにあった。彼は自分の自我を保ちながらもゲーテその人となったのである。様々な人との出会いの中で、彼はクラシック音楽史上極めて偉大な作曲家の一人とされるあのベートーヴェンと出会う。音楽一家の子供として生まれた血が騒ぎ興奮を隠せない彼だったが、生きるベートーヴェンを前にして彼は驚愕した。なんと、ベートーヴェンは幼い少女だったのである。

史実がベースにありながらもこれは紛れもないファンタジー

杉井光岸田メルのコンビによる新シリーズ。高校生だった主人公はメフィストフェレスという悪魔との出会いにより文豪ゲーテと魂の融合を果たし、幼女ベートーヴェンなどとの出会いを通じて紡がれるゴシックファンタジー

音楽を題材にした内容であるということからも分かる通り、杉井先生の趣味が前面に押し出された作品です。杉井光による音楽小説といえば『さよならピアノソナタ』ですが、本書の舞台は18世紀ドイツであり様々な過去の偉人が登場するなど、現代の高校を舞台にしていた『さよならピアノソナタ』とはその作風を異にしています。

パッと見では結構お堅いイメージがありますよね。ゲーテを主人公とし、過去の偉大な音楽家たちが登場する物語はライトノベルとしてはかなり異彩を放っており、近寄りがたい空気すらあります。でも、そういった思いは読んでいくうちに霧散するでしょう。音楽物だった『さよならピアノソナタ』が退屈せず読めた人ならば、こいつも読めるはず。なぜなら、この『楽聖少女』もやっぱり杉井作品にほかならないわけですから。

例えばハイドンという音楽家。彼はもちろん作曲家ですが、本書においてはもう一つ「格闘家」という驚くべき肩書きがあります。時代的に既に死んでいるはずのモーツァルトは未完のレクイエムを完成させるために復活しましたが、遊び人である彼は共に復活したマリーアントワネットと四六時中情事を重ね、作曲なんてそっちのけという性欲無尽蔵マシーンと化しています。そして極めつけはベートーヴェンの幼女化。あの希代の音楽家がまさかの赤毛美少女byメル絵です。さすがライトノベル、僕はここまで清々しいご都合主義を見たことがありません。

こういったキャラクターが杉井先生の文体で動かされているのは、歴史と音楽と微量の笑いを上手く混ぜ合わせてゴシックファンタジーとして成立させており、ラノベならではの読みやすさをきちんと生み出しています。また主人公をゲーテとしながらもその意識は一介の男子高校生に置くことで感情移入を促しているのも見事で、編集の慧眼が光ります。百聞は一見に如かず、いつもの調子で読めること請け合いでしょう。

ベートーヴェンの生き様、ゲーテの生き様

ベートーヴェン、作中ではルゥと呼ばれていますが、彼女の芸術家としての生き様の前には信仰も君命も意味を成しません。そこにあるのは作り手と受け手だけ。受け手がいて初めて音楽は音楽として成立し、その瞬間こそが芸術家である彼女の生きる意味です。故に彼女は受け手の評価だけを甘んじて受け入れます。

「第二楽章が葬送行進曲だろう。ナポレオン陛下の死を願う曲なのだろう? フランスへの敵愾心をあおる、そのような曲の発表は認められない。即刻破棄しろ」
「ばかばかしい。きみのあるじはお伽噺におびえる子供かい?」
「きさまこそ自分の影響力を自覚しろ。ボナパルトなどと名付けて大曲を発表したら、民衆は必ず騒ぎ立てて好戦的になる」
「けっこう! いくらでも騒いでもらおう。僕は芸術家だよ、人の心を動かし、騒がせ、かき乱し、高め、ひとときなりともここではないどこかへ連れていく、そのためだけにこの手と血で音符を連ねているんだ。ぼくの作品を受け取ったドイツ人がナポレオンの死を願って怒号を噴き上げようと、フランス人がナポレオンの死を予感して涙に暮れようと、それはすべてぼくへの賛辞と罵声だ。ぼくもただそれを受け取り、噛みしめ、次の曲を書くだけだ」


楽聖少女 / 杉井光 / 231ページより

転じてゲーテとなったユキという少年は、感動に打ちのめされた時悪魔に魂を持っていかれるという契約があるために、書物や音楽など創作物には極力触れないようにして殻に閉じこもります。そうしないと生き残れないと感じるユキは極めて人間的であると言えますが、芸術家とは何たるかを体現したような存在、ルゥにとってはそんな彼に対して憤りを感じずにはいられないのです。ゲーテのファンでもあった彼女には、感情を無理やり押し殺そうとするゲーテはあまりに愚かだから。

読者目線で言わせてもらえば、自分が展開する音楽というフィールド外からの干渉には全力で怒りを露わにする芸術家って人達は「超めんどくせぇ……」と思わずにはいられない。独善的すぎて協調性がないし、正直一番友達にしたくないタイプです。でも、彼女はかのベートーヴェンなわけで。クラシック音楽界の神とも言われるその影響力は絶大で、共に過ごしているユキは感化されないわけがありません。

そうした主人公の心境の変化という部分で、ベートーヴェンという偉大な音楽家の力が多分に作用していたというのは説得力があり、また彼らに対するリスペクトも感じられて読んでいて心地よいものでした。また、音楽以外の生活部分で、例えば食事とかでルゥがユキに全力で依存しているのも杉井先生らしい描写で、対称的な二人が無い部分を補い合っている構図はその関係性を際立たせていて面白かったです。アリスとナルミの関係性ともいう。

総評

著者の趣味が全開な内容であるがために、正直万人受けする内容であるとは言い難いです。『神様のメモ帳』のようなミステリ的要素もないし、『さよならピアノソナタ』のような恋愛要素があるわけでもない。描かれているのはゲーテとなったユキの物語、そしてその世界で生きるベートーヴェンその人の生き様、それだけです。

それでも僕が面白いと思ったのは、本書が芸術家という人々の生き様を分かりやすく描いており、物語に上手く落とし込んで読ませている点です。独善的ともいえる思想の上で活動している彼ら音楽家が己の仁義を通した結果、様々な名曲が生まれ、またその時代に大きな影響を及ぼしたという事実は、音楽の力の強さを改めて認識させてくれて、とても感慨深いものがありました。それを分かりやすくラノベという媒体で提供できたのは、男子高校生を主人公にすることで読者の感情移入を図り、ベートーヴェンを幼い少女とするキャッチーな試みがあったからなんでしょう。

音楽に対する著者の愛は相当なものであるのが伺えて、それが物語の根幹に根ざしているからこそ纏う雰囲気には確固たる信念を感じさせ、とても力強い。音楽をかじっていた人には是非読んでみて欲しいと思います。

楽聖少女 (電撃文庫)

楽聖少女 (電撃文庫)